本当は書きたくない
セルフハンディキャップという言葉を初めて知った。いや知ろうとしてこなかった。
まさに今までの私の幼稚で浅はかな悩みはこれによって生ずるところであったといってよいだろう。現にこの文体こそがその根深さをありありと物語っている。
そして正常性バイアス。
自分だけが大丈夫だろうという根拠のない自信は皮肉にも自己肯定感の低さから発生するという。かつて、君は自己肯定感が低いねと言われたことがあった。そうだろうそうだろう、そういうふうに演じているのだから。そういうふうに見てもらいたいのだから。だが、17年間と数カ月のあいだ膨らみ続けてきたエゴと承認欲求はいつしか周りに精神薄弱者の薄皮を纏って周囲の同情を買おうとする道化になっていた。そして気づけば粘着質な薄汚い皮は内部をも侵食していた。結局のところ根拠のない自信は熱を失った怠い体とその濁った心に宿るのだ。
明日にはこのことを忘れてまた堕落した生活を送るのだろう。
家族のぬるま湯のような視線を受けながら怠惰な一日を消費するのだろう。
その時々変わってきた依存先のコンテンツは手を変え品を変え私のもとへやってきて、私はそれを当たり前のように受け入れて、気づけば夕方で、すこし眠くなってきて、さほどお腹もすいていないのに無理やり晩飯を胃袋に押し込んで、風呂に入り、ぼーっと手元にある15㎝の液晶を眺めながら無駄な16時間を消費するんだ。
一日中この無意味な螺旋の責任のありかを見つけ、もしくは生み出すことに精を出す。
だんだん微睡み、だんだん忘却して、だんだん戻れなくなる。
何とかしたいと思うこの気持ちは果たしてどこからやってきたのだろう。
自分の体はどこへいってしまったのだろう。
どうして自分は生きていると言えるのだろう。
助けてほしいと思った。ああ、お前はここにもいるのか。
自分でなんとかするという試みは捨て去ってしまったのか。
駄文はいくらでも作れそうだ
アタマの中身を吐き出したところで結局こうしてネガティブになってしまう、体裁を整えようとしてしまう。とても気持ちの悪い生物だ。
眠くなってきた。
忘れたくない。
そういうポーズを今はとっておこう。